破壊と創造

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常に破壊が起き、
常に創造が起きている。
現実は、深層心からの創造であり、破壊された残像である。
破壊をどのように受容するのかでそこからそれに応じた創造物また破壊物が立ち上がる。
受容の状態それこそが創造ということもできる。

破壊物に執着し、創造を疎かにしているのかもしれず。

だがそれすらもそれすらも破壊物。次へ次へと創造の場は切り替わり続ける。

内へフォーカス。それがさらに強くなってきたことを感じる。外をどうこうではない。破壊されたものに執着することなく、創造の場、どう感受するのかというところを大切にする。それは結果に囚われず、いつでも内での響きにフォーカスし続けながら行動することともいえる。

 

わたしたちの現実は、情報そのものを映しだし、それを認識し、観測することで固定されているともいえる。自分の持っている情報が、中立なる映像を捉えた時にどのような反応をするのか?というところが体験となっている。

どのような反応をするのかは、個人の情報処理システム次第であり、だからこそ、同じ場にいても情報処理が違うために感じること、判断したことが異なり、意見が合わないということがある。すべてが記憶と言ってもよく、他者と一致することがない。

幼少期に同じ親から育てられたとしても、感受システムが違うから、親への印象も兄弟で違えば、そこから蓄積されてくる情報は似通うものの一致することはない。

感受システム、反応システム、情報処理システムなどが違うからだ。

 

現実をどのようにキャッチしているのかは、その自分の反応である、感情や思考によって知ることができる。何気なく過ごしている内は、みんなが同じ世界にいるものだと思うが、自分のキャッチするものによって世界がどのように見えるのかにフォーカスしてみると、ひとりとして同じ世界に住んでいる者はいない。一緒に過ごす時間が長い家族ですら、体験は違い、戸惑ったり、分かり合えないもどかしさを感じることは体験済みだと思う。

 

その、感情、思考パターンを自分でわかるという時間を過ごしていると、自分をどのような存在だと決めているのかが徐々に見えてくる。人、シチュエーションを変えて、自分が感じること、思うことがパターン化されていることに気が付くからである。

この世界はインプットとアウトプットでできている。自分の情報のインアウトで現実体験をしている。

例えば、新しい情報を入れる。「ここにはこう書いてあった。なるほど。」と思うと、その情報をもとに、現実解釈をし始める。その情報の証拠探しをするというシステムがあるからだ。証拠が見つかり、「なるほどやっぱりね」が繰り返されていくと、「この世界とはそういうものだ」というルールが出来上がる。その情報を入れるまでは、そういう世界ではなかったのに、その情報を入れるとたちまちその証拠が集まりだし、その情報をもとにした世界がつくりあげられていく。

こういう世界だと決めているのは、ただの情報であって、現実そのものではない。情報によって、+から-へという極限から極限に視点が変化することなど日常で体験しているだろう。正解はなく、ただそのときに集まった数の多い情報なだけ、証拠として自分が集めたというだけであって、私たちが体験している「そうである」はその情報を集めただけに過ぎず、どの「そうである」も同じ大きさ、何も変わらない。情報が流れているだけであって、どの体験も優劣がない。

 

さて、話を冒頭に戻していこう。

破壊と創造。現実という解釈をしているが、それは中立で意味のないものに、情報を与えているものである。その情報は、自分がなるほどと思ったものや、当然だと過去に思ってきたものである。

過去に思ってきた、過去に集めた情報を通して、現実解釈をしている。過去集めた情報なので、現実は過去である。過去集めていた情報なので、今なにもないありのままのそれを観ているわけではない。それを幻想だといったりする。

情報で解釈しているからだ。そしてそれは個人個人持っている情報で違うからだ。同じものを観ているのに、情報処理システムが違うから、同じ体験をすることはない。情報だけである幻想。その情報と自分とを同一のものとしてしまっている。

 

現実は過去データに解釈されているという情報なだけで、過去持っていたものがアウトプットされているというだけで、それを情報であると認識すると、自分と同一視していたところから離れることができる。そう解釈が起きただけ。それと自分とは一切関係がない。

そこは、過去データが表面化し、自分と離れるタイミングであるということから、自分からその情報の一部が変化することによっていままでの情報まるごとの自分が一度【破壊】される。瞬間瞬間が破壊。認識と自分を切り離すタイミングだから。

そして、そこから情報をインプットする瞬間が【創造】。なにを持ってインプットするのか?というと、現実を認識するときに起きた感情と思考をまた採用することである。感情や思考という情報をまた自分の信じている証拠としてインプットする。

何かが起きた時、そこに反応をし、それをそうであると採用する瞬間は毎瞬起きている。言葉、行動によって、それがそうであると自分の世界をつくりあげていく情報として採用している。

「もう!!あなたってこういう人なんだから!!」そこにどれだけの情報が重なり合っているのだろう。あなたはこういう人である。あなたをこういう人だと思いたくない。自分はそれをされたくない。自分はそれをされてしまうような人である。

それをされてしまうような人だから、中立な映像を、こうされていると捉え、そこに反応が起き、また自分はそれをされたと認識し、自分はこういう人だという循環が出来上がっていく。インプットしているのは自分。認識しているのは自分。それをアウトプットしているのも自分。破壊が起きているのに、また創造してしまっているのは自分。自分の世界をつくりあげる情報として採用しているのは誰でもない自分なのだ。
自分と自分以外があるように思えて、すべてが認識だった。
自分の大きな深層心からなにが立ち上がるのかは、選べない。その立ち上がった破壊を破壊のままに自分から放すタイミングをいただいていることに感謝しながら、次の立ち上がる破壊を楽しむ。自分が蓄積してきた情報の塊が、壊れ、自分から離れていくことを見送りながら、そこに入ってくる安心と信頼を受け容れる。

それが自分との信頼関係であり、宇宙との信頼関係であり、自分のなかのパートナーシップの循環であり、自分を大切にするということであり、自分を宇宙に表現させることをゆるすということであり、自分ではなく宇宙そのものを観察していくということでもあるのかなと思う。

 

もう一回冒頭の文をここに記す。

 

常に破壊が起き、
常に創造が起きている。
現実は、深層心からの創造であり、破壊された残像である。
破壊をどのように受容するのかでそこからそれに応じた創造物また破壊物が立ち上がる。
受容の状態それこそが創造ということもできる。

破壊物に執着し、創造を疎かにしているのかもしれず。

だがそれすらもそれすらも破壊物。次へ次へと創造の場は切り替わり続ける。

内へフォーカス。それがさらに強くなってきたことを感じる。外をどうこうではない。破壊されたものに執着することなく、創造の場、どう感受するのかというところを大切にする。それは結果に囚われず、いつでも内での響きにフォーカスし続けながら行動することともいえる。

 

 

 

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hiromitti

保健師HIROMITTIです。 新しい健康教育は、自分の内的世界のなかに、お姫様と王子様を住まわせること。 「愛と信頼で満ちたお姫様」と、「すべてを具現化できる王子様」とのコミュニケーションストーリーに力を貸すことで、自分の人生がパワフルに展開し、健康でイキイキ生きる体験をサポートしています。 他者ではなく、自分で決めるから楽しく生きられる。自分を愛することでQOLを高める方法をご紹介します。

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