上記は、HIROMITTIが自分というものを構成していると考えている概念図です。
下段から積み上がっています。
鍵となるのは、自分への執着という部分。ここが体験のなかのキモとなる部分。
無限の過去未来情報が交錯している流れのなかに、わたしたちは居て、社会や家庭や学校、または過去世から持たされてきた【解釈ルール】をもとにして、感情や、思考が湧き上がり、選別されて概念づけして、個人体験となっていると考えます。
ここで、情報ではない部分はどこだろう?と考えてみて下さい。
なかなかおもしろいことが発見できるかと思います。
この世界は、認識(情報)だけで出来上がっています。
観察者の観察が起こるまで、なにも起きていないニュートラルな場に、観察者という情報の塊が、これはこうであるという情報を出現させると、その情報が目の前にアウトプットされてくるという世界観があることはご存知でしょうか。
観察者そのものが変わったら、観察者のもつ概念が変わったら、現実は変化しないわけない。
そして、観察者も概念も情報なだけなので、それを変化させることは可能だとイメージできるでしょう。
ここで、観察者(自分とは)という情報が無になったらどうでしょうか?
観察対象も無になってしまう。観ているものと観られているものがなくなる。
するとただの感覚だけになる。
なにもなく、すべてがある。オールOK。認識しほうだい。意味つけ放題。意味が無いからこその自由。
その位置で、制限のない情報の出現をゆるし、その情報を観測する。
意識だけを立ち上がらせる。
自分がという囚われなく。他人がという囚われなく。すべて同一ものもとして、意識だけを立ち上がらせる。
意識に添った映像だけがそこに映し出されていく。
個人ではなく世界平和への願いが叶いやすいのは、ここに自分がないから。さらに叶いやすくするには、自分をなくしていくことが必須。
みんなのためにという自他の区別のない意図は自己執着がないから出現しやすい。
自動操縦。自動放映。
宇宙の表現のままに委ねるところでの調和な世界が体験できそう。
感情や、思考は、自分のものではなく、自分が集めて持っているルールによる選別された過去未来含んだ集合意識。それをただただ流し、認識を与えない。
認識を与えるということは、集合意識をつかって自己執着に力を注ぐから。
言い方を変えると、集合意識の流れから、感情や思考を強く湧き上がらせ、わかるのは、自分が集め持っているルール。
だからこそそのルールを知り、変換することができる。ルールをただ情報をして受け取るだけでいい。そもそも自分なんてものはない。
だからこそ自分という体験が変わっていく。感情も思考も変わっていく。感覚をカテゴライズする大元にある情報が変わっていく。
情報の塊であることに気づき、情報に囚われない手放しを楽しむ流れへ。
集合意識を流し、自己執着による認識をせず、そのままに流していくとどうなるのか?という未知を楽しむ。
閃きをそのままに動かしていく体験をしていく。
根拠なく(過去データなく)、これ楽しそうっていうところをそのまま(過去データの枠に抑えずに)表現させてあげる。
それは無限の可能性の表現となる。
自己執着がなくなることで、願いは全てへの願いとなり、それをそのままに体験することができるだろう。
新しい世界の体験の仕方。みんながすべてしあわせに在れる方法。
そーんな妄想ストーリー。
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